⁡【近代文士十二名筆 十二ヶ月俳句短冊】

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⁡【近代文士十二名筆 十二ヶ月俳句短冊】


12人の近代を代表する作家・詩人・俳人による
12ヶ月の俳句をしたためた12枚の美しい色変わり短冊のセット。

長田幹彦 里見弴 室生犀星 芥川龍之介 佐藤春夫 久保田万太郎
上司小剣 徳田秋聲 泉鏡花 小山内薫 高浜虚子 久米正雄

という顔ぶれです。

 大正14年(1925)5月17日付けの、
芥川龍之介から佐藤春夫に宛てて出された手紙に、
下山霜山という書画商の発案で
十二人の作家による短冊を頒布する企画についての記述があります。

(口語訳)「下山霜山という人がいるのだが、こんど作家十二人に短冊を書かせておおいに私腹を肥やそうとしているんだ。ついては君にも、彼を儲けさせる一人になってほしくてね・・・」と茶目っ気ある文面で、
自身と佐藤の他に泉鏡花、徳田秋声、永井荷風、里見弴、長田幹彦、久米正雄、小山内薫、久保田万太郎、上司小剣、室生犀星
というメンバーで俳句を書くので何ぶんよろしく、と伝えています。

本作がこの手紙にある十二人の作家による
短冊セットのひとつであることはほぼ間違いないでしょう。

予定メンバーとして「永井荷風」の名が挙がっていますが、
何らかの理由で永井の短冊はここには見られず、
代わりに芥川の俳句の師でもある虚子が加わっています。

12人で何組の短冊セットを作成したのかは不明ですが、
12枚セットの形で現存しているのは大変貴重です。

芥川は手紙にさらにこう書き記しています。
(口語訳)「正直に言えば、こんな企ては千枚も二千枚も短冊を書かされて
楽ではないだろうけれど、下山霜山を喜ばすだけではなく、僕や室生犀星も
地獄で君にまみえるような悪魔的歓喜があると思うのだ・・・・」



ここに名を連ねる作家たちは、
虚子を除いてはほぼ俳句が本業ではありませんが、
いずれも多くのすぐれた俳句を残しています。

明治から大正という時代、俳句の愛好は小説、詩、脚本など
さまざまな分野で活動する作家たちの
共通のコミュニティだったとも言えるでしょう。

俳句を通じ、
ジャンルやスタイルといった垣根を超えてお互いを刺激し合う喜び、
また日頃は文壇のライバル同士でもある関係を忘れて
同じ企みに興じる遊び心、
芥川のいう「悪魔的歓喜」とはそういったことを
指しているのかもしれません。

なお、本作に用いられている美しい色変わりの短冊は、
1806(文化3)年から現在も日本橋に店舗を構える和紙舗「榛原」製で、
箱も「東京はい原製」の朱印が押されたオリジナルです。
榛原の製品は短冊、色紙や原稿用紙などが当時多くの文士たちに愛用されていたことが知られています。

こちらの作品は額装が1点も付いております。
次毎にお楽しみ頂けます。


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一月 長田幹彦(ながたみきひこ) 門松の高さに空の晴れてあり 幹彦

清々(すがすが)しく晴れわたった空。その空に届こうかというほど立派な門松が真っ直ぐに立っている。元日の朝のはればれとした景色。


二月 里見弴(さとみとん) 蛇(へび)いでて母を都に送りけり 弴

蛇も穴から出る季節となった。蛇と鉢合わせしてはかわいそうなので、母を都に送り返した。


三月 室生犀星(むろうさいせい) 硝子戸に梅が枝さわり固きかな 犀星

まだ風も冷たい春先、閉ざした窓の向こうに立つ梅の木の枝がガラスに当たり、ガラスがいっそう冷たく固く感じられる。

句集『魚眠洞發句集』(ぎょみんどう ほっくしゅう)(昭和4年 1929刊行)収録。「梅 金沢川岸町」と前書きがある。大正12年(1923)東京で関東大震災に罹災、十月に一家で金沢に転居して一年を過ごした間の句と考えられる。大正13年5月には芥川が金沢に室生犀星を訪ねている。翌大正14年、室生犀星は芥川の住む東京田端に転居した。


四月 芥川龍之介 竹の芽も茜さしたる彼岸かな 龍之介

まもなく土から顔を出さんとする生命力に溢れた竹の芽、その上にも夕日がさし、一日が終わりをつけげようとしている。あの世とこの世が交錯する彼岸の景色。

大正11年(1922)二月十八日、薄田泣菫宛ての手紙に添えられた句。


五月 佐藤春夫 思ひ出つる幼きわれや恋し鳥 春夫

夏の訪れを告げるホトトギス、その別名は古恋鳥(いにしえ こうる とり)。その声を聞くと私も幼かった頃のことを思い出し、切なくなるのだ。


六月 久保田万太郎 うち日さす都べ淋し蓮の花 万

きらきらと輝く華やかな都、そのほとりには蓮の花がさびしく咲いている。


七月 上司小剣(かみつかさしょうけん) 忙しく西瓜食ひけるコック室 小剣

真夏のレストラン。厨房では、忙しく働くコックたちが束の間の休憩にあわただしく西瓜を食べているよ。


八月 徳田秋聲(とくだしゅうせい) 碧桐に残る暑さや旅帰り 秋聲

旅から戻るとアオギリの葉の色がまだ青く、このあたりには夏の暑さがまだ残っていることだ。


九月 泉鏡花(いずみきょうか) 爪ひきの妹か夜寒きはしらかな 鏡花

来ない人を待って、そぞろに三味線をつまびく。柱にもたれかかりながらしんしんと感じる秋の夜ふけの寒さ。


十月 小山内薫(おさないかおる) 胡座してなりはひの針の夜寒かな 薫

胡座をかいて、もくもくと仕立て物に精を出す。寒さがしみる秋の夜更け。


十一月 高浜虚子(たかはまきょし) 遠山に日の當りたる枯野哉 虚子

目の前の荒涼とした野原からふと目をやると、遠くの山にぽっかりと冬の陽があたっていた。

明治33年(1900)11月25日、虚子庵例会での作。


十二月 久米正雄(くめまさお) 魚城移るにや寒月の波さゞら 正雄

寒月の下、波がきらめきさざめいている。水の底の魚の城の大移動が行われているのだろうか。

句集『牧唄』(大正2年 1914)収録。この句の斬新な手法から「魚城の三汀」(三汀は久米正雄の俳号)と称されるようになった。




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長田幹彦 ながた みきひこ 1887年〜1864年(明治20〜昭和39)

小説家、作詞家。東京府麹町区飯田町生まれ。兄は劇作家の長田秀雄。早稲田大学英文科卒。中学時代から兄秀雄の影響で『明星』『スバル』に詩作を投稿。大学在学中に北海道を放浪、その時の体験を基にした小説「澪」「零落」を『中央公論』に発表して高い評価を受ける。のち京都祇園を舞台とした「祇園もの」でも人気を博す。1925年(大正14年)にラジオ放送が開始されると小山内薫や久保田万太郎などと伴に「ラジオドラマ研究会」を東京放送局内に設置、その中心となり脚本家や声優の育成に努めるとともに、自身でも脚本を文芸顧問として執筆。昭和に入ると日本ビクター顧問として専属の作詞家となり多くの流行歌を作詞した。


里見弴 さとみ とん 1888年〜1983年(明治21〜昭和58)

小説家。横浜生まれ。兄に小説家の有島武郎・、小説家・画家の有島生馬がいる。東京帝大英文科中退。二人の兄の友人志賀直哉の強い影響を受け、『白樺』創刊に参加。人情の機微を描く心理描写と会話の巧妙を発揮して、高い評価を受けた。1924年頃から終生鎌倉に住みむ。代表作に『多情仏心』『恋ごころ』『極楽とんぼ』『五代の民』など。舞台への造詣も深く、歌舞伎、新派、文学座など、原作や戯曲も多く提供し、演出も行った。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章。


室生 犀星 むろう さいせい 1889年〜1962年(明治22〜昭和37)

詩人・小説家。石川県金沢市出身。本名は室生 照道。別号に「魚眠洞」、「魚生」、「殘花」、「照文」。私生児として生まれ、真言宗の僧侶・室生真乗の養子となる。13歳で高等小学校を中退、就職。14歳頃から俳句や詩歌の投稿を始める。文学への思いを募らせて20歳で単身上京、生活苦にあえぐなかで数々の詩をつくり、『愛の詩集』『抒情小曲集』などの抒情詩は大正期の詩壇を牽引し、さらに小説家としても「幼年時代」「性に眼覚める頃」「あにいもうと」「杏つ子」「かげろふの日記遺文」「蜜のあはれ」などを発表。随筆、童話、俳句にもすぐれた作品を残した。


芥川龍之介 あくたがわ りゅうのすけ 1892年〜1927年(明治25〜昭和2)

小説家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼。東京出身。東京帝国大学文科大学英文学科卒。昭和2年7月24日未明、服毒により自殺。死の前日、近所に住む室生犀星を訪ねたが留守で会えず、室生は後年までこれを悔いていたという。死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川龍之介賞」(芥川賞)を設けた。代表作に『羅生門』『鼻』『地獄変』『歯車』など。俳句もよくし、三十半ばの短い生涯に千百余句を残した。


佐藤春夫 さとう はるお 1892年〜1964年(明治25〜昭和39)

詩人・小説家。和歌山県生まれ。明治43(1910)年永井荷風を慕って慶応義塾大学に入学、『スバル』『三田文学』に詩や評論を発表。大正8(1919)年『田園の憂鬱』を発表し、小説家として文壇に注目された。谷崎潤一郎夫人千代子との恋愛のなかで詩集『殉情詩集』(1921)をまとめる。『都会の憂鬱』(1922)、『退屈読本』(1926)等を通して多彩な感性を示し、小説、随筆、童話、戯曲等、その活動は多岐に及んだ。昭和5(1930)年千代子と結婚。以後、次第に東洋的な文人趣味に傾き、『掬水譚』、『晶子曼陀羅』等を発表。初代新宮市名誉市民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章。


久保田万太郎 くぼた まんたろう 1889年〜1963年(明治22〜昭和38)

小説家、劇作家、演出家、俳人。東京生まれ。慶應義塾大学在学中「三田文学」に発表した小説「朝顔」で認められる。東京の下町に住む人々の生活感を主体とした作品が多く、情緒的写実主義と評される。劇作家としても新劇、新派、歌舞伎の演出など多方面に活躍し、昭和12(1937)年文学座創立に参加、戦後は俳句誌『春灯』を主宰した。昭和26(1951)年日本演劇協会会長。昭和32(1957)年文化勲章受章。



上司小剣 かみつかさ しょうけん 1874年〜1947年(明治7〜昭和22)

小説家。代々奈良県手向山八幡宮の神主をつとめる家に生まれる。父が摂津の多田神社(現:兵庫県川西市)の宮司となったため、幼少期をそこで過ごす。明治22年(1889)大阪予備学校に入学。四年後、父の死去に伴って退学、小学校の代用教員を勤めた。明治30年(1897)上京し、読売新聞社に入社。明治38年(1905)、それまで「読売新聞」に連載していたエッセイをまとめた『小剣随筆 その日その日』を発表、作家としての第一歩を踏み出す。大正3年(1914)1月に発表した小説「鱧の皮」が田山花袋の激賞を受け代表作となる。第3回菊池寛賞受賞。芸術院会員。


徳田秋声 とくだ しゅうせい 1872年〜1943年(明治4〜昭和18)

小説家。石川県金沢市生まれ。泉鏡花、室生犀星とともに金沢三文豪に数えられる。士族の子として生まれるが、父の死後経済的な理由から第四高等学校を中途退学、文学を志し上京、尾崎紅葉に入門。当時の自然主義文学思潮の波に乗り現実社会に目を向けた『新世帯』『足迹』『黴』『爛』『あらくれ』を発表。静かに現実を見つめ、それを飾り気なく書き込んでいく作風で、島崎藤村、田山花袋と並ぶ大家となった。昭和16年(1941)、『縮図』を都新聞に連載するが、軍部の干渉で連載は中絶し絶筆となった。芸術院会員。

同郷の泉鏡花が尾崎紅葉を崇拝していたのに対し秋声は自然主義に接近したことなどから、二人の関係は良くなかったと伝わる。


泉鏡花 いずみ きょうか 1873年〜1939年(明治6〜昭和14)

小説家、戯曲作家。金沢市下新町生まれ。北陸英和学校中退、上京して尾崎紅葉に師事。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで、幻想文学の先駆者としても評価され、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫ら多くの作家に影響を与えた。主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。芸術院会員。


小山内薫 おさない かおる 1881年〜1928年(明治14〜昭和3)

劇作家、演出家、評論家、小説家、詩人。広島市出身。日本の演劇界の革新にその半生を捧げた"新劇の父”と言われる。東京帝国大学英文科卒業。1909年に「自由劇場」を、1924年に土方与志らと「築地小劇場」を設立。同劇場は新劇の演出、演技、舞台技術の基礎を築き、日本演劇に大きな影響を与えた。戯曲に『第一の世界』(1920年)、『息子』(1922年)などがある。また、1919年に松竹本社理事兼松竹蒲田撮影所撮影総監督となり、1920年松竹キネマ俳優学校校長、松竹キネマ研究所設立を通して、トーキー(発声映画)が登場する日本映画黎明期に深く関わり、それまでの女形ではなく女性が女性を演じる「女優」を日本映画に誕生させたことでも知られる。


高浜虚子 たかはま きょし 1874年〜1959年(明治7〜昭和34)

俳人・小説家。愛媛県生。伊予尋常中学校在学中に、同級の河東碧梧桐とともに正岡子規に兄事、俳句を学ぶ。京都の京都の第三高等学校に進学、のち仙台の第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入、中退。上京し子規に師事。子規の協力で柳原極堂が創刊した俳句雑誌『ホトトギス』の編集発行を引き継ぎ主宰した。子規の没後、碧梧桐が新傾向の俳句を推し進めるのに対抗し、自然や対象を客観的にえがく「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱して伝統俳句の立場を守った。2万句を超える俳句残し、代表句集『虚子句集』など。小説に『俳諧師』がある。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。


久米正雄 くめ まさお 1891年〜1952年(明治24〜昭和27)

小説家、劇作家、俳人。俳号は三汀。“微苦笑”という語の造語者として有名。長野県上田市生まれ。東京帝国大学文学部英文科卒。福島県立安積中学校(現福島県立安積高等学校)在学時代から俳句の才能を開花させる。大学在学中、芥川龍之介らと東京帝国大学系の同人誌である第三、四次『新思潮』に参加。第3次『新思潮』に発表した戯曲「牛乳屋の兄弟」が上演され好評を博す。また夏目漱石に師事、漱石の長女筆子に失恋した経緯を『蛍草』『破船』などの長編小説にえがく。その後、多くの大衆小説を執筆、彩な作品で人気流行作家となる。1925年(大正14年)から亡くなるまで鎌倉に居住、1927年(昭和2年)5月には亡くなる二ヶ月前の芥川龍之介の訪問を受けている。鎌倉では鎌倉文士の蔵書を基に川端康成たちと開いた貸本屋(戦後に出版社となる)“鎌倉文庫”の社長も務め、文藝雑誌『人間』や大衆小説誌『文藝往来』を創刊するなど活躍した。

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