作家名
本阿弥光悦 (ほんあみこうえつ)
作品名
七月二十日付 奇庵老宛 書簡 / 会津八一箱書
『光悦』(昭和三十九年 林屋辰三郎代表著 第一法規出版株式会社発行)所載
素材
紙本
サイズ
本紙巾41.7×竪27.9㎝
総丈巾43.4×竪106㎝
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【翻刻】
下々申分付而御
肝煎之由候、先
以書状令申候、委曲
道二老物語可有候、
恐惶謹言
七
廿日 光悦(花押)
徳友斎
〆
奇庵老様
玉床下 光悦
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【読み下し】
下々申し分に付きて御肝煎の由候、先ず書状を以って申さしめ候、
委曲道二老物語り有るべく候、
恐惶謹言 七 廿日 光悦(花押)徳友斎
奇庵老様 玉床下 光悦
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【意味】
下々の者たちの言い分について、
特別のお取り計らいがあるとのことです。
取り急ぎ書状をもって申しあげます。
詳しいことは道二老からお話しがあることと思います。
七月二十日 光悦 徳友斎
奇庵老様のお手元に。
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【解説】
宛名の奇庵老なる人物と配下の者たちの間に、何らかの交渉事があったのであろうか。その申し分を汲み特別な計らいがなされるよう、光悦が第三者に働きかけたものとみられる。くわしいことは道二老からお伝えします、とあり、事件の詳細はここでは触れられていない。
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略歴
本阿弥光悦 (ほんあみこうえつ 1558年〜1637年 / 永禄1〜寛永14)
安土桃山〜江戸前期の京都の芸術家。
号は自得斎・徳有斎・太虚庵など。
刀剣の鑑定・研磨という本阿弥家の家職を継ぐ一方、独創的な芸術の才能を発揮しました。
光悦流と言われる書法も独特で、同時代の松花堂昭乗・近衛信尹とともに寛永三筆と称されました。
角倉素庵と協力して出版した豪華な古典の私刊本「嵯峨本」や、俵屋宗達の下絵に和歌や漢詩を書いた歌巻・色紙、さらに絵画・蒔絵・陶芸など幅広い分野で多くの傑作を生み出しました。
茶の湯・作庭にも優れ、当代の知名人士と広く交友しました。
晩年、徳川家康から京都鷹峯の地所を与えられ、一族・工匠とともに移り住み創作雅遊の生活を送りました。
会津八一 (あいづやいち 1881年〜1956年 / 明治14〜昭和31)
歌人・美術史家・書家。新潟県生。
雅号は、秋艸道人・渾斎。早大英文科卒。
奈良の仏教美術にひかれ、南都に取材した平仮名書きの万葉調短歌を詠み、1924年(大正13)、初の歌集『南京新唱』を刊行しました。
教育者としては1910年(明治43)から早稲田中学で英語教員をつとめ、のち早稲田高等学院教授、1931年(昭和6)には早稲田大学文学部教授となり東洋美術史などを講じた。
晩年は新潟市に戻り、書に専念。歌集に『鹿鳴集』など。新潟市名誉市民。